チャレンジは目的ではない
人は、「チャレンジすること」に囚われると、本質を見失う。
なぜかというと、目的や目標を達成するため、結果的に「チャレンジしている」わけで、チャレンジが目的ではないから。
あくまでもチャレンジは結果的に起こるもの。
そもそも「チャレンジ」といっている時点でハードルが高いと思っている。ハードルが高いと思っていなければ、チャレンジとは言わない。
チャレンジではなく、達成すること。と言い切る。ハードルを上げない。
チャレンジと言えないくらいまでハードルを下げる。
なぜハードルを下げるか?「チャレンジ」、「ハードルが高い」と気負っていると、本来のパフォーマンスが出ない。それは身体も精神も緊張しているから。
緊張していると力が入り、本来のパフォーマンスが発揮されないと思う。
もちろん、適度な緊張感と心構え、事前準備など必要だから、なんでもかんでも力を抜けばいいわけではない。
適度に緊張し、「チャレンジしている」と思わないくらいまで、事前準備をし、敷居を下げる。ハードルを下げる(言い換えただけ)。
それがいいんじゃないかな。
チャレンジするのではなく、取り組めばいい
実際、チャレンジって、失敗しても仕方がないのような意味が含まれていると思う。
もし少し高いハードルがあり、「一生懸命チャレンジします。」と宣言し、失敗した場合、チャレンジしたことに意義がある。と言ってそこで終わるのか。そうではないよね。
チャレンジというか、成功するために取り組んでいるんだよね。なので、一回目の取り組みでもし目標まで届かなくても取り組んだことには意味があるし、経験値も溜まっている。
そもそもその時点で失敗は無い。だって経験値が増えていることは紛れもない事実だから。
話が逸れまくった気がするが、なにより「今年はいろいろなコトにチャレンジします」みたいなのはオススメしない。チャレンジが目的に見えるからだ。
目的があり、「結果的にチャレンジしている状態」にしよう。
例えば、
情報発信の力を付けるために、ブログ毎日更新にチャレンジします。
と、
情報発信の力を付けるために、ブログ毎日更新に取り組みます。
どちらが続けられそうか?どちらが危なっかしいか?
考えて見てほしい。
あとチャレンジが目標だと、自分が本当にやりたいこと以外にも貴重な時間を割く可能性がある。
それにより、新しい道や可能性が開けるかもしれないけれど、チャレンジ重視の思考回路だと、本当に大事ではないものでも「ピンときちゃった!本能が言ってた!」と脳が勘違いしやすいと思う。根拠はないが、身に覚えはありまくる。
もう一回言いますよ。身に覚えがありすぎる。
おもしろチャレンジの罠を回避する2つの考え方
そこでだ、安易にその脳の勘違いをさせない方法が2つある。
ひとつは、チャレンジを目的に定めないこと。さっき言ったやつ。
そして、2つめがやらないことを決めること。
これらを決めておくと、うっかりピンと来ちゃった!チャレンジしなきゃ!って発想がなくなる。
それが自分がやると決めたことならOK。それは既にチャレンジではなく「必然的に取り組む」ことだから、チャレンジ補正がかかったテンションにならない。黙々と、淡々と取り組むだけだから。
やらないことを決めておけば、
うっかりトライアスロンに誘われて(トライアスロンを否定しているわけではありません)「これはチャレンジしがいのある案件だ」となったり、
報酬が高いからと興味が無い仕事を受けるハメになったりする。
わかるしょ?反省しろよ?
遊びでのチャレンジは多いに結構です。それは余暇だから。でも、自分の時間(命)削ってやる挑戦は、あまり意味がないことが多い。
余命半年しかなかったら、そんなチャレンジ精神で行動している場合じゃなくて、それはハードルが高くても達成しなければいけないことになるから、真剣に取り組むだけだろ?
参考→「余命半年でやりたいこと」が本当の「やりたいこと」。マンガでわかる 非常識な成功法則 著:神田 昌典 | はしもとんの伝え方
チャレンジ至上主義にならないためのまとめ
長くなりましたが、チャレンジ脳を抑え込むためには、
- チャレンジは結果そうなること、であり目的ではない
- 目的に沿った取り組みをしなさい
- 「チャレンジすること」を目的にしない
- やらないことを決める
でした。この手紙はちょうど一年前、2017年1月2日のボクに向けて書いています。
アレもこれもやろうとするな、引き算しろ、強みを活かせ、苦手なこと、ワクワクしないことには「できそうだから」って手を出すな。
やらないことを決めろ。