記憶力の無い俺でもハッキリ覚えている「2011年3月11日」
あれからもう4年経った。「もう」なのか「まだ」なのかわからないけれど。
あの時のことは書き起こしていなかったので、ここに書き留めておこうと思う。
(長くなりそうなので分けました)
そう、あの日は夜勤だった。
地震発生時は家族全員揃っていた
2011年3月11日。俺は前勤めていた会社で夜勤真っ最中。地震は家で寝ているときに起こった。
長男は幼稚園を休んでいたので、偶然にも家族全員揃っていた。一安心するも、間も無く停電。時間が経つにつれて徐々に事の大きさを知った。主にツイッターで。
我が家は2月末に今の家に引っ越したばかり。前アパートだったらかなり揺れて怖かったんだろうなと思う。
昔職場の先輩に結婚祝いで貰った電波時計が、地震の1週間前くらいから頻繁に狂っていたことを思い出す。電池を交換しても直らないから、何かな?霊的なものでももらってきたかな?と思っていた。あれは地震の前兆だったのかと納得。
うちは北寄りの埼玉県だけど、震災当日は停電したままだった。
夜が近づくにつれて家族の不安な感情が手に取るようにわかる。その日はキャンプ用のランタンで灯りを確保、乾パンかなにかを食べたような気がする……。
その日の仕事は夜勤だったけど電話通じないし、家族を置いて夜仕事に行くのもあり得ないと感じたので、そのまま休んだ。社畜じゃなくてよかった俺。
翌朝、停電が解除。やっと充電にありつけたiPhoneが鳴った。会社からだ。
「今日もそのまま休んでよし。工場が壊滅したから、交代勤務無し。明日朝から来てね。」というような内容だったような気がする。多分。。。。
工場は開店休業状態
工場にいってみると大変な有様だった。
当日の夜に会社まで来て連絡を聞いて帰った人たち沢山いたらしい。「お前も電話通じなかったら一回会社に来て指示を仰ぐんだぞ」的なことを上の人言っていたが、バカじゃね?と思って相手にしなかった。
で、工場。上部の階は大変なことになっていた。幸いケガ人は1人も居なかったけれど、2ヶ月くらいは生産が出来ないくらい。
地震のときに現場にいた人は死を覚悟したと言っていた。
当日も酷かったが、余震もたくさんあった。
しばらくは後片付けがメイン。
工場内で特に被害が大きかった場所は専門の業者さんが後片付け。比較的安全な場所は従業員で片付けたり掃除したりした。
そのうち夜勤も復活し、組ごとに復旧活動を進めていった。怖いのは夜勤の余震だ。
とある組が出勤のときに余震が集中した。偶然なので誰も悪くないが、やたら多かった。余震があると避難場所に集合かけたり点呼をとったりして、組リーダーは大分疲弊していたのをよく覚えている。
ガソリンと買占め
ガソリンの買い占めもひどかった。ガソリンが無くなるとデマが広がると、スタンドには人が押し寄せた。渋滞かな?と思って前をよく見るとガソリンスタンドでの行列だったり。やばい。
中には、少しでもガソリンを使ったら満タンにする為に並んでいる人もいた。暇なのなんなの?
とにかくガソリン関係は良い思い出がないなぁ。スーパーでも買占めが増えて、お店が空っぽになることもあった。
なんか、誰が悪いとかじゃないけれど日本全体が窮屈な感じ。
このころは「今」に向き合う時間が本当に長かっだと思う。
色々考えていたら、今戸建に住んでいるからドラムを置けることを思い出した。
日本全体が自粛ムードの中、自分の直感を信じてドラムを買うことにした。
②へ続く
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